砂
の
城
姉が死んだ。16歳だった。
その報せを聞いた時、一瞬耳を疑った。だって、昨日までは普段と変わらずに過ごしていたのに。寝るときの挨拶だって、「おやすみ、また明日」と言いながら俺の頭を撫でてきたのに。
その姉がどうして―? と絶句する俺に、両親がこう説明した。
学校でけいれん発作を起こし、その場に倒れた。倒れただけならまだよかったのだが、倒れた時に頭を机の角に強く打ちつけ、そのまま―。
そこまで話して、両親は涙で声を詰まらせた。「自分の娘が死んだ」なんていう冗談をいうような親ではないとわかっていたが、信じられなかった。信じたくなかった。
そんな思いをそのままに、両親の車に乗り込んで姉が運ばれた病院へと向かった。
病院に着くまでの数十分間、俺はいつだったか、姉に言われた言葉を思い出していた。
左手首の傷は、もう既に消えかけている。
*
暑い夏の日、だったように思う。
部活で仲間とケンカをした。どんな言葉が原因だとか、思い出せないくらい些細なケンカだった。けれど、その時の俺はただただイライラしていた。
学校から家へ帰り、「ただいま」も言わずに乱暴に玄関を閉め、自分の部屋にこもった。
俺はやり場のない怒りをどこにぶつけるべきか、と考え、あることを思いついた。
―リストカット だ。
手首を切ることでイライラが消えるという話は、ネットで読んだことがあった。丁度良いじゃないか、やってみよう―。俺はカッターの刃を限界まで出して左手首にそれをあてがい、スッと引いた。もし死んでしまったら、と考えたが、あいつらの顔をこれから見なくて済むならそれで良いやと思っていた。
傷は―ごく浅いものだったが、血は、出た。
薄く、薄く開いた皮膚から少しにじむ程度の量の血。
それを見て思わず苦笑した。切るときに抱いた、「もし死んだら」という考えは、ただの杞憂に過ぎなかったのだから―・・・。
切った後、イライラは消えたが、代わりに不思議な感覚が残った。言葉で言い表すのは酷く難しい感覚が。
とりあえず手当をしようと、救急箱を取りに自分の部屋を出た。
傷をいつまでもそのままにしておくのは、何となく嫌だったから。
(死んでも良い、という考えと微妙にムジュンしているが)
救急箱が置いてある台所まで、家族の誰にも会わずに行ければOKだ。
そう思いながら、ゲーム感覚で家の廊下を歩いた。が、すぐにゲームオーバーしてしまった。
姉と会ってしまったのだ。
思わず顔が強張った。姉は俺の顔を見た後、左手首に目を落とし、そして微笑んだ。
「台所、お母さんいるよ。救急箱、取ってきてあげる。」
何かお説教をされるんじゃないかと身構えていた俺は、予想外の言葉に拍子抜けしてしまった。
姉は去り際、「私の部屋で待ってて」と言った。
俺は言われたとおり、姉の部屋に行った。少しして、救急箱を持った姉が部屋に入ってきた。
姉は手際よく、俺の傷の手当てをした。手当を終えた後、「質問しても良い?」と俺に訊ねた。俺は口で答える代りに、目で答えた。それを「OK」と受け取った姉は俺に、「イヤなコト、あったの?」と言った。
てっきり、「どうしてこんなことするの」という類のことを訊いてくると思った俺は、また拍子抜けしてしまった。どう答えるべきか迷って、なかなか言葉が出てこなかった。
「答えたくないなら答えなくても良いけど」
ポツリ、と姉が言った。俺の返答を待たずに、姉は続ける。
「自分で自分に傷をつける、つけないは自分の勝手だと思うの・・・。
だって、不安定な足場から逃げるための手段のひとつでもあると思うもの、私は・・・。」
「・・・・・・」
「でも、もし死んだら・・・。死んで自分は満足しても、残された人の中で悲しむ人はきっと居るもの・・・。
そんな人たちを残して死ぬなんて、何よりも罪深いことだわ・・・。」
姉は俺の方を見ていなかった。姉の視線を目で追うと、ゴミ箱に行きあたった。おびただしい数の、血のついたティッシュが捨てられていた。
「自分で傷をつけるのと、死ぬのは多分違うわ・・・」
姉は視線を動かす。その先には、血のついたカッターが置かれていた。そして、姉の手首には包帯が巻かれていた。
今思えば、あれらの言葉は俺ではなく姉自身に向けられていたものではないか、と思う。そして姉は俺に言ったのだ。
「ねぇ、だからー・・・」
*
「生きてね、私も頑張るから」
思わず声に出ていた。助手席に座っていた母が、「何か言った?」と俺の方を振り返る。
その質問に、「なんでもないよ」と適当に返した。姉との思い出に浸っていました、なんてどうにも気恥ずかしい。
そうこうしているうちに、病院に着いた。
*
1日ぶりに見た姉は、最後に見た時と比べて顔が大分青白かったし、息もしていなかった。死んだ、ということを認めざるを得なかった。
―生きてね、私も頑張るから。
死んだのだ。そう言った姉が・・・。
そう認識した瞬間、不意に視界が歪んだ。どこからか声も聞こえてくる。
「姉さん・・・。姉さん・・・。」
視界を歪ませていたのは涙で、聞こえてくる声は自分のものだと気づくのに数秒かかった。
俺は姉の手首を見た。包帯の下を見るのはこれが初めてだった。それまでは、傷を見ることを望まなかったし、何より姉が見せることを望まなかったのだ。
酷い傷がそこにあった。時間が経っても消えることのないような傷が。傷はひとつだけではなかった。縫い跡のようなものもあった。
そこでふと、『体の傷は時が経てば消えるが、心の傷はいつまで経っても消えない』という言葉が頭に浮かんだ。
絶対間違ってるよな、と思った。体の傷も心の傷も、深ければ深いほど、消えにくいのだ・・・。
姉もそう思いながら自傷を繰り返していたのだろうか。今となってはわからないことだが。
―生きてね、私も頑張るから。
―何よりも罪深いことだわ・・・。
姉の言葉が、頭の中で何度も響いた。
アレ以来、俺がリストカットをしていないのは、これらの言葉が支えになっていたからかもしれない。そして、姉がそこに居たから―
そう考えると、姉は俺の中で相当大きな存在だったのだ。だから、ここに馬鹿みたいに涙を流している自分が居るのだ。では、どうしたらこれから「今まで通り」に生きて行ける?昨晩姉に撫でられた姉の手のぬくもりも、もう思い出せないのに。
目の前の姉からは、確かな体温が感じられない。それがただ、ただ辛い。
死は姉のぬくもりをさらって行ってしまった。もし姉が生き返ってくれれば、もう一度だけ、ぬくもりを感じさせてもらうのに。でもその祈りが届くことはない。だからせめて、未だ鮮明に響くあれらの言葉を胸にとどめ、生きていくのだ。俺はそう心に決めた。
そんな決意と愛情をこめて、俺は姉にキスをした。
ふわり、冷たい風が舞いこんだ。
ふと外を見ると、月のない夜が始まろうとしていた。西の夕焼けは闇に侵され始めている。
暗い闇の中で、星だけが静かに輝いていた。
(俺が姉の部屋で、姉の日記を見つけて再び涙を流すのは、また別の話)
2010年3月20日
最後の夕焼けがうんたらのところは、絶望(暗闇)の中に輝く希望(星)をイメージして書いたのですが、それが伝わるかは激しく微妙です。